かやくご飯について思うところがある。
そもそも、かやくご飯で伝わるのだろうか。
炊きこみご飯のことを関西ではかやくご飯というらしい。
つまり私は関西の人間であるが、それはこの話においてはどうでもいい。
この国は関東基準で考えられている節があるので、以下、炊き込みご飯で統一しよう。
なら、最初から炊き込みご飯と書けば良いだろうと思うだろうが、生憎私は関西人なので、そこは主張したいと思ってしまう。
では、本題に入ろう。
炊き込みご飯が好かれているのがとても気に食わない。
白米に勝てるわけでもないくせに、何しゃしゃり出てるんだと思ってしまう。
そもそもご飯の中に具が紛れ込んでいるのが、私には無理だ。
米の食感の中に、具の食感が入り込むあの異物感がたまらなく苦手だ。
それに白米はおかずの味の濃さを中和する役割を担っている。
これは白米にしかできないことで、この上なく名誉なことだと思う。
なのに、その名誉を傷つけてまで、炊き込まれて主役になろうとしてくるのはどういう神経をしているのかと心配になる。
イメージとしては、地味な人が急に金髪に染めてきたときにでる「どうした」と言ってしまうあの感じに似ている。
しかし炊き込みご飯はしたり顔で、今日もその地位を築いている。
赤飯はまだ許せた。
古い人間がトチ狂って、祝い事だと赤く染めたご飯だから仕方ないと割り切れた。
だが、炊き込みご飯は意味もなく炊き込まれる。意味もなく炊き込まれ、純白を失う。
それが許せなかった。
多様性が求められる時代。米にもそれがあって良いじゃないか、そう思う時もあった。
しかし、この気持ちを墓場まで持っていけるほど、私はできた人間じゃなかった。
そう、面倒くさい人間なのだ。
こうして今日も、私は家族から「面倒な奴」という烙印を押され幕が下りる。