「今日も生きたな」そう思う日は意外と少ない。
生きるということに慣れすぎたせいか、安全に過ごすことが当たり前になっている恵まれた環境のおかげか、「生きている」という実感はあまりない。
生への執着は薄れていくが、それに比例して死にたい気持ちが強まるわけでもない。
生きることが当たり前すぎて、生のありがたみを忘れてしまっている自分がいる。
だから、自分が胸を張って「生きている」とは言えないなって思うし、もう少し生きることに一生懸命でいたいと思ってしまう。
「一生懸命生きる」ってどういうことを言うのだろう?
とりあえず、息を止めてみた。40秒が限界だった。
息をすることを再開したということは、とりあえず私の本能的な何かは「生きる」ことを選択したらしい。
バカバカしいけど、息をすることを再開しだした数秒は生きるのに一生懸命だった。
求めていた答えからは遠ざかったけど、こうして当たり前のように息をしているのは恵まれた環境にいると実感できた。これぐらいの答えの方が今は心地いい。
ありがたいことに酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すことを自然にできる身体であるし、今日も気軽に酸素を吸える環境にいる。
実感はないけど、些細なことが当たり前になって、今日も生かされた。
まだ一生懸命生きることはできないけど、素敵な日にはなった気がする。