wuenoの日記

~308号室から憂いを込めて~

今日も良い日だった。

今日はたいして良いことがなかった。

でも、地球上の誰かは良いことあったんだろうなって考えると、少し満たされた。

我ながらおめでたい頭していると思う。

 

考えているうちに実際に見たくなった。

早速Twitterで「良いこと」を検索してみた。

 

しかし「良いこと」で検索してるはずなのに、マイナスなつぶやきばかりが出てきた。

検索のタイミングにもよるのかもしれないけれど、見るのも嫌なのでスクロールの手を止めた。

 

そして私は思う。

(こいつらよりも)良い日だった。

 

手帳に関するささやかな疑問

今週のお題はてな手帳出し

 

私は思う。

手帳なんて買っても白紙になる未来しか見えねぇよって。

 

重い手帳にわざわざ書くほどの予定がないし、そもそもが紙切れのメモでいい。

何でみんな買うの?とすら思う。

 

なので、私は手帳を買う人間にはなれない。

たぶん、一生なれないと思う。

 

手帳を買わせるような変化をもたらす、そういう人に私は会いたい。

 

あえて空を見るという選択肢。

今日はいつもと違うことをやりたい、そう思った21時。

年に一度あるかないかの心のざわつきだったが、私はあえて空を見ることにした。

この程度の選択に納得してしまう自分に少し呆れながら、窓を開けた。

田舎というには栄えすぎていて、都会というには少しのどかなせいか、星の見えない何とも言えない夜空だった。

 

考えてみれば、空を見ようと思って見上げたのは久しいことだった。

歩く時に視界に入るが、あえて見ようとすることはなかった。

たぶん、私の生活にスマホが侵略しているからだ。悪いと思いつつもやめられない歩きスマホ、正直好きだ。

空は良い光景とは言い難いが、何となく見て良かったと思えた。

 

あえてしないことをたまにすると、少し視界が広くなった気がしてしまう。

たかが空を見ることですら、こんなにも満たされる。

こんなことなら、9月10日に月見をしておくんだったと後悔した。

SNSで月の写真を見て満足していたが、実際に自分の目で見るとまた違って見えただろう。

窓を開けて見上げるだけのことなのに、四角形の画面を見ることを選んだ自分。

なるほど、思ってた以上にスマホに侵略されている。

 

たまにはスマホを置いて、あえて空を見るのも良いかもしれない。

久々に見た空は何だかいつもよりも大きく感じた。

 

牛は嘘つきな生き物

子供の頃、牛は嘘つきな生き物だと思っていた。

牛と触れ合った経験は大人になった今でもないし、もちろん彼ら彼女らの鳴き声をテレビで聴いても感情は分からない。

しかし、子供の頃の私は牛が嘘つきな生き物だと確信を持っていた。

 

幼い頃に嘘をつくと死んだ後に地獄で舌を引っこ抜かれると知った。

なので、焼肉屋で牛タンをいくら頼んでも無くなることがないのは、牛が嘘つきな生き物だからなんだろうなと思っていた。

 

大人になった今では、さすがにこんなことを思わない。

ただし一つ引っかかることは、死んだ後に地獄で舌を引っこ抜かれるのかだ。

生憎死んだことがないので、生きている私たちには真相が分からない。

しかし、問題はこのことを言い始めた人が確実にいたということだ。

 

私は地獄について詳しくないが、地獄にいる人間が人間に輪廻転生できるものだろうか?

おそらくできないだろう。できたとしても、虫か動物からスタートするだろうし、人間になる頃には地獄の記憶はないだろう。

前世の記憶ですら持っている人は稀でさらに朧気なので、地獄について覚えているわけはないだろう。

そう考えると舌を抜かれる説を言い始めた人はタチが悪い嘘をついたものだ。

生前に確かめることができないうえに、死んだ後に事実は伝えられない。

戒めとしては素晴らしいが嘘としてはタチが悪い。

 

結局は人間が一番嘘つきな生き物である。

 

もしも身長が伸ばせたなら。

もしも身長が伸ばせるボタンがあったら、私は押すだろうか?

歩いている時に目の前にいたおよそ180センチを超えるであろう男性の後ろ姿を見て、ふと思った。

 

ちなみに私の身長は165センチで男性の中では、低めの身長だ。もちろん高い身長には憧れがあり、そんなボタンが目の前にあれば衝動的に押すだろう。

過去になんとも思っていない職場の女性から「身長170未満は男性として見れない」と言われ、なぜか悔しい気持ちになったことのある私だ、きっとボタンを押す。

 

だけど、後悔すると思う。

おそらく180センチを超えた身長の自分を見て吹き出してしまう。私は自分が低い身長であることに慣れすぎて、まさしく身の丈に合わない、そう思うだろう。

 

これは考えていて意外に思ったが、私は自分の165センチという低い身長が好きなようだ。

たまに見栄を張って166センチとたかだか1センチを盛ってしまう浅ましい自分がいるが、165センチという身長を気に入っている。

高校生を境目に伸びることをやめ、かれこれ10年ほどの付き合いとなった腐れ縁とも言えるこの165センチの身長にどうやら愛着が芽生えてしまっているようだ。

 

ここまでおおげさには言ってみたものの、言い換えると結局は背の低い自分が好きなのだ。

なので、もしも身長を伸ばせるボタンが目の前にあったとしても、冷静な今の自分なら押すことはないし、このままの自分を望むだろう。それぐらい、自分の身長を愛してやまないのだ。

ただし、もしも身長を縮めることができるボタンがあるなら、一度伸ばすかもしれないが。

 

そんな浮気心もある私だが、今後も末永くこの身長でいられるように願うばかりだ。

 

今日も生かされた。

「今日も生きたな」そう思う日は意外と少ない。

生きるということに慣れすぎたせいか、安全に過ごすことが当たり前になっている恵まれた環境のおかげか、「生きている」という実感はあまりない。

 

生への執着は薄れていくが、それに比例して死にたい気持ちが強まるわけでもない。

生きることが当たり前すぎて、生のありがたみを忘れてしまっている自分がいる。

だから、自分が胸を張って「生きている」とは言えないなって思うし、もう少し生きることに一生懸命でいたいと思ってしまう。

 

「一生懸命生きる」ってどういうことを言うのだろう?

とりあえず、息を止めてみた。40秒が限界だった。

息をすることを再開したということは、とりあえず私の本能的な何かは「生きる」ことを選択したらしい。

バカバカしいけど、息をすることを再開しだした数秒は生きるのに一生懸命だった。

 

求めていた答えからは遠ざかったけど、こうして当たり前のように息をしているのは恵まれた環境にいると実感できた。これぐらいの答えの方が今は心地いい。

 

ありがたいことに酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すことを自然にできる身体であるし、今日も気軽に酸素を吸える環境にいる。

実感はないけど、些細なことが当たり前になって、今日も生かされた。

 

まだ一生懸命生きることはできないけど、素敵な日にはなった気がする。